王莽

王莽

作者:(日) 东晋次

出版社:四川人民出版社

出版年:2021-11

评分:7.3

ISBN:9787220122873

所属分类:行业好书

书刊介绍

内容简介

“日本首部权威王莽传记”(白帝社)

日本三重大学名誉教授东 晋次

潜心十年穷究可考史料

力求还原一个复杂多面的新莽缔造者

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【编辑推荐】

王莽如何一步步从“师友归仁”走到“中外愤怨”?

称帝既“亦天时,非人力之致”为何又成“非命之运”?

坚定儒家圣世理想的人为何会“毒流诸夏”“害遍生民”?

执迷“制礼作乐”的新莽与“儒教国教化”有何历史关系?

本书将以“圣”为解读王莽的关键字

全面、细致追溯其矛盾冲突、波折起伏的生平

寻隐出更为丰满和立体的王莽“形象”

力求还原一个儒家理想信徒的真实一生

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【出版社推荐】

“王莽,一个终结西汉政权、建立新莽政权的人物。新朝被东汉王朝赋予负面意义,王莽其人也被贴上恶人的标签,背负了两千年的骂名。究竟,王莽是不是一个大逆不道的篡位者?本书将以“圣”为关键字,通过细致地追溯王莽的生平,还原一个在两汉之交如同儒家理念化身一般存在过的历史人物的真实面貌。

本书为日本首部权威王莽传记。”

——白帝社

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【内容简介】

《王莽:儒家理想的信徒》为“日本首部权威王莽传记”(白帝社)。

王莽,一个终结西汉政权、建立新莽政权的人物,然而新朝被东汉王朝赋予负面意义,王莽其人也被贴上恶人的标签,背负了两千年的骂名。究竟,王莽是不是一个大逆不道的篡位者?

日本三重大学名誉教授东晋次先生,源于对王莽这一颇具争议的历史人物的强烈好奇心,潜心十年穷究与王莽相关的可考史料,深入论证、综合分析了王莽的性格形成之环境因素、仕途升迁之家族因素、言行交际之教育因素、制礼作乐之理想因素等内容,力求寻隐出一个更为丰满和立体的王莽“形象”。

本书将以“圣”为解读王莽的关键字,通过细致、全面地梳理王莽矛盾冲突、波折起伏的生平,还原一个在两汉之交、如同儒家理念化身一般存在过的历史人物的真实面貌。

作品目录

第一章 王莽的成长经历与王氏一族
王莽出生
王氏祖先
元后入宫
第二章 青年时期的苦闷
王氏青年
学习礼经
交游关系
踏入官场
列侯爵位
第三章 出任大司马
内朝外朝
外戚政治
王氏专权
成帝之怒
淳于长之死
第四章 失意的日子
哀帝即位
哀帝政权
尊号问题
新野就国
南阳豪族
第五章 重返京师
傅氏与董贤
再受天命之策
社会动荡与西王母信仰
重返京师
第六章 共同执政
汉哀帝之死与汉平帝即位
元后的权威
安汉公王莽
四辅制与三公制
赈恤吏民政策
礼制学制改革
第七章 吕宽事件
王莽一家
吕宽事件始末
铲除平帝外戚
打压皇室与同族
王莽的心思
第八章 宰衡称号
立女为后
自比周公
官制改革
礼制改革
受赐九锡
毒杀平帝说
第九章 王莽摄政
太子刘婴
倒莽运动
成竹在胸
诸士去就
第十章 王莽称帝
符命与图谶
王莽称帝
传国印玺
即位的合法性
高祖之灵
第十一章 新莽诸政
官制革新
实施王田制
限田制与王田制
六筦政策与货币制度
第十二章 单于之怒
汉匈关系
单于印玺
匈奴西域反叛
华夷观念
备战匈奴
战后汉匈关系
第十三章 新朝诸政的失败
臣子谏言
买卖王田
六筦政策与货币制度的失败
心腹叛离
第十四章 豪族与民众的反叛
吕母之乱
赤眉军进击
孤独与狂躁
南方民众
南阳刘氏起义
昆阳之战
第十五章 长安落日
王莽之忧
长安沦陷
悲惨结局
长安落日
终章 班固对王莽的评价
王莽其人
对儒家圣世的追求
王莽政权研究
后 记
中文版后记
引用文献
参考文献
图版一览表
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作者简介

【作者简介】

[日]东 晋次

日本三重大学名誉教授。1944年生于日本三重县出生,1974年名古屋大学大学院文学研究科博士课程满期退学,历史学博士,研究方向为中国古代史。历任爱媛大学教育学部讲师、助教授、三重大学教育学部助教授、教授,2007年4月至2009年3月担任日本国立大学法人三重大学理事(副学长),2009年4月至2016年7月以三重大学国际交流中心客座教授身份前往天津师范大学国际教育交流学院进行日语教学。2016年8月以降,居于名古屋,2021年10月25日溘然辞世。

〔著 作〕

《後漢時代の政治と社会》(名古屋大学出版会,1995年)

《王莽-儒家の理想に憑かれた男》(白帝社,2003年)

《退職老人の日本語教育-日中協同教育in天津》(白帝社,2017年)

【译者简介】...

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精彩摘录

「彼も人間なんですよ。畜生(ちくさん)などと罵(ののし)られるのは恥辱としてこれ以上のものはないのではないでしょうか。ですから、私は彼が自殺をするのではないかと危惧したのです」と。光武帝(こうぶてい)の奴婢解放令(ぬひかいほうれい)の根拠となった、『孝経(こうきょう)』の「この自然界の中に生きとし生けるもののうちで、人間こそもっとも尊(たっと)い存在である」という教えが、儒雅(じゅが)の士の劉寛(りゅうかん)の脳裏には厳然(げんぜん)と存在していた。

——引自第72页


身ごもった時、妻は月が腹に入るのを夢見たという。政君(せいくん)が元帝(げんてい)の皇后(こうごう)となるまでには、これまた種々の不思議の話が伝えられる。かつて結婚の相手が決まったのだが、輿入れ前に相手が死んだのである。また、東平(とうへい)王が政君を姫として聘(まね)いたところ、まだ入内(じゅだい)しないうちに東平王が薨(こう)ずることになる。王禁は不思議に思い、人相見に占ってもらったところ、「えも言われないほどの貴なる相でございます」ということであった。

——引自第20页

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